オリンピックスポーツ文化研究所 コラム

オリンピックスポーツ文化研究所 日体の歴史をつくってきた人々①

日体の歴史をつくってきた人々

2025年、創立134周年を迎えた日体。日本体育会体操練習所、同体操学校、体育専門学校、さらには日本体育大学と、日体は近代日本の歩みとともに発展を遂げてきた。そして、どんな時代にあっても、日体には、体育・スポーツを愛してやまない日体生の姿があった。本コラムでは、そんな日体生のライフヒストリーの一部を紹介することによって、次世代の日体ファミリーへとそれが継承されていくことを願う。
なお、掲載される情報は未完のものであり、適宜、修正・加筆が行われていくことを予めご了承ください。

【体操】 日本体操界初のオリンピアン・佐々野利彦/Toshihiko Sasano(1911-1975)

1932年ロサンゼルスオリンピック出場時の佐々野
出典:『日本体育会体操学校第三十九期卒業生記念写真帖』

1911(明治44)年
長崎県南松浦郡福江町(現、五島市)に生まれる
1928(昭和3)年
日本体育会体操学校に入学する
1931(昭和6)年
日本体育会体操学校を卒業する
1932(昭和7)年
ロサンゼルスオリンピック体操競技日本代表選手
1937(昭和12)年
「スワロークラブ」(現、日体スワロー)の創設を主導する
1952(昭和27)年
ヘルシンキオリンピック体操競技日本代表監督
1964(昭和39)年
東京オリンピック体操競技日本代表総監督
1975(昭和50)年
肝臓がんのため亡くなる(享年63)

1.少年時代

佐々野は、1911(明治44)年11月2日に長崎県南松浦郡福江町(現・五島市)に生まれ、県立五島中学校(現・五島高等学校)で少年時代を過ごした。
五島列島は九州の最西端に位置し、とくに、佐々野が生まれ育った福江島は景観が美しく、大部分が西海国立公園に指定されている。島では、コバルトブルーの海や「きびなご」をはじめとする海の幸を堪能することができる。佐々野の母校・五島中学校は、1900(明治33)年に開校して以来、五島藩の居城だった福江城(石田城)の本丸跡に建つ全国でも珍しい学校である。

(上)福江島の海岸
(下)五島中学3年次の佐々野
(2列目右から3番目が佐々野)
出典:『石田城:創立100周年記念誌』

2.日本体育会体操学校への入学

五島では相撲が盛んで、佐々野も相撲が強かったようである。中学卒業後、佐々野は、体育の道を志して1928(昭和3)年に日本体育会体操学校(以下、日体)に進んだが、一時は相撲部にも所属していたほどだった。
けれども、いくら力が強く器用だったとはいえ、身長が低かった(158㎝/58.9㎏)ために相撲に対して限界を感じ、器械体操部に専念した。まもなくすると、どんどん体操が上達していったので、体操をもっと知りたい、もっとうまくなりたい、そんな欲が出てきた。気づけば、器械体操の虜になっていた。

体操学校2年次の佐々野
出典:『石田城:創立100周年記念誌』

3.日本体操競技界初となる1932年ロサンゼルスオリンピックへの出場

佐々野は、1931(昭和6)年に日体を卒業し、翌1932(昭和7)年には教官として日体に赴任した。彼によれば、「第三寮寮監室の壁に『行け、国際場裡へ』と書いた紙を貼り、これを座右の銘として深夜におよぶ練習の明け暮れであった」。その結果、1932年ロサンゼルスオリンピック体操競技日本代表(6名)に器械体操部の盟友・武田義孝とともに選ばれた。ロサンゼルスオリンピックは、日体の器械体操部員としても、日本体操競技界としてもはじめて経験するオリンピックだった。

1932年ロサンゼルスオリンピック日本代表メンバー
(前列左端が佐々野、右隣りが武田)
所蔵:オリンピックスポーツ文化研究所

4.1932年ロサンゼルスオリンピックにおける日本人最高順位の獲得

筋骨隆々の佐々野がもっとも得意とした種目は吊環で、彼は、1932(昭和7)年時点で「十字倒立」をものにしていたといわれる。本大会で日本の団体戦の成績は最下位(5チーム中5位)だったが、佐々野個人は、日本人最高順位(吊環8位、平行棒12位、個人総合18位)を記録した。後年、佐々野は、日本体操界初のオリンピックで「休む間もなく外国選手の練習を見た時は、すべてが驚きの一語に尽きた。…中略…われわれの想像にあまる国際水準の高さを目のあたりにして、よし、やってやるぞ、これから日本の体操が始まるのだと闘志が湧いた」と語っている。

1932年ロサンゼルスオリンピック日本代表
(右端が佐々野)
出典:『スワロー大鑑』

5.日体器械体操部OBチーム「スワロークラブ」の創設

佐々野は、「一つでも大会で見た技を身につけよう」と帰りの船の上でも毎日練習に励んだ。周囲の人々は、そんな佐々野を「日本体操界のテスト・パイロット」と呼んだ。1933(昭和8)年には全日本選手権で優勝、名実ともに日本一の体操選手になった。
1937(昭和12)年には、1936年ベルリンオリンピックの主将を務めた体操学校の盟友・武田や後輩たちに声を掛け、器械体操部のOBチーム「スワロークラブ」を創設した。同クラブは、戦後、数多くの名選手を輩出することになる「財団法人日体スワロー」へと繋がる組織である。
そして、2年後の1939(昭和14)年4月には、体操学校の教官を辞してNHKラジオ体操の2代目アナウンサーに就任、終戦に至るまで国民体育の振興に力を尽した。

NHKラジオ体操アナウンサー時代の佐々野
提供:ご家族

6.体操ニッポンを夢見て

戦後、佐々野は体操競技の現場に復帰。1952年ヘルシンキオリンピック日本代表監督、1964年東京オリンピック日本代表総監督をつとめ、「体操ニッポン」の礎(いしずえ)を築いた。しかし、モントリオールオリンピックを翌年に控え、熱い想いを語っていた1975(昭和50)年6月に肝臓がんがみつかり入院、1か月後の7月12日に亡くなった。63歳だった。息を引き取る間際、佐々野は、「勝つんだ、勝つんだ!!」そう叫んだと伝わっている。
日本体育大学器械体操部や日体スワローはもちろん、日本体操界におけるオリンピックの歴史は、体操競技をこよなく愛した五島男児・佐々野利彦に始まるといっても過言ではない。
佐々野の偉大さは、日本体育大学、日本体操協会、日本オリンピック委員会など7つの団体が合同で告別式を執り行ったことにも立ちあらわれている。

1952年ヘルシンキオリンピック日本代表チーム
(左端が佐々野)
所蔵:オリンピックスポーツ文化研究所
(ご家族より提供)

日体スワロー
(1列目右から4番目が佐々野)
所蔵:オリンピックスポーツ文化研究所
(ご家族より提供)

【オリンピックスポーツ文化研究所助教 関口雄飛】

【主な引用・参考文献】

  • スワロークラブ(1953)「ロスアンゼルス・オリンピック大会」『器械体操写真大鑑』中日本スポーツ研究会、pp.28-31。
  • 浜田靖一(1995)「戦前の日体の全盛時代」『日本体操協会60年史』財団法人日本体操協会、pp.129-130。
  • 長崎県立五島高等学校編(1970)『石田城:創立70周年記念誌』長崎県立五島高等学校、pp.78-81。
  • 長崎県立五島高等学校編(2001)『石田城:創立100周年記念誌』長崎県立五島高等学校、p.125。