日体大、その挑戦の歴史を辿る

​​​1857​​​

日高藤吉郎栃木県佐野町堀込郷にて誕生

本学の創設者である日高藤吉郎は、幕末の1857(安政4)年に栃木県佐野町近郷の堀込郷で誕生しました。幼くして父親と死別し、親戚筋の養子になるものの、17歳で陸軍に入隊。西南戦争などに従軍しました。
その経験から、日本人の体位・体力が著しく劣っていることや、将校が軍人としての指揮能力を欠いていることを痛感。20代後半で除隊した後、「国家建設の基は体育にあり」と考え、1885(明治18)年に士官学校の予備教育機関として文武講習館(後の成城学校、現在の成城中学校・高等学校)を開設。さらに、1891(明治24)年に私財を投じて「体育会」を創設しました(翌年に「日本体育会」と改称)。
日高は日本体育会の発展に尽力し、1901(明治34)年には同会を私的機関から公的な社団法人に改組。1932(昭和7)年、76歳にて死去しました。
1857
1891
1891

日高藤吉郎、東京市牛込区に体育会を設立

19世紀末、世界中で欧米列強の帝国主義が吹き荒れており、その中で独立を守り、アジアの先陣を切って近代化を進めるため、明治政府は富国強兵・殖産興業の方針を掲げました。民間の立場からこの方針を支えるべく、日高藤吉郎により1891(明治24)年、創設されたのが「体育会」(翌年に「日本体育会」に改称)です。
日高が自ら執筆した「体育会設立ノ要旨」には次のように記されています。
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夫レ身体健康ナラザレハ,心志剛強ナル能ハズ。心志剛強ナラザレハ,事ニ堪ヘ業ヲ遂クルコト能ハズ。而シテ身体ノ健康ヲ欲セハ,身体ヲ運動スルヨリ善キハ莫シ。(中略)体育ノ重キハ旣ニ此クノ如シ。即チ余カ輩以爲ヒラク,体育ヲ盛ニシテ國民ノ強壯ヲ謀ルハ,蓋シ國家富強ヲ圖ル大本ナリト。
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国民の体位・体力を増進するため、「日本体育会」が当初、目指していたのは現在のスポーツ・クラブのような会員制の組織を全国展開することでした。ドイツ語に堪能であった日高は、当時のドイツで普及していた体育協会(ツルンフェライン)をモデルにしたようです。日本体育会では、3回にわたって内国勧業博覧会に参加し、“総合体育会館”の建設・出品も行っています。
しかし、あまりに先駆的なこの試みは会費徴収に問題を抱え、資金面で安定を得ることができませんでした。そのため、日本体育会の事業は実質的には学校経営に絞られていきました。
1893

日本体育会体操練習所を東京市麹町区飯田町4丁目に設置

日本体育会が1893(明治26)年に設けたのが「日本体育会体操練習所」です。これは日本体育会の会員制組織において体育を教える専門家を養成することを目的とし、さらに学校体育の教員となる予備機関としての役割も担うものでした。この「日本体育会体操練習所」こそ、今日の日本体育大学の前身に他なりません。明治期には他にも、多くの私立の体操教員養成機関が設立されました。しかし、その多くは間もなく消えていきました。
そのような状況下にあって「日本体育会体操練習所」が存続できた大きな理由は、国の信頼と支援を得ることができたからです。総裁に皇族の閑院宮載仁親王を推戴し、会長・副会長のポストには軍の高官や華族を招き、1899(明治32)年、国庫補助金(5か年)を受領することになりました。
文部省直轄学校として開校した「体操伝習所」(明治11年設置、現在の筑波大学体育専門学群)が廃校となり、代わって体育教員養成の機能を委ねられた高等師範学校の体操専修科も1889(明治22)年以来、実質的に体育教員の養成を中断していたため、国の体育教員養成機関の肩代わりをする機関が必要とされていたのです。こうして、「日本体育会体操練習所」は実質的には国立に準じる団体とみなされ、文部省直轄機関の一つに加えられることになりました。1900(明治33)年には、「日本体育会体操学校」と改称しました。
1900

体操練習所および模範体操所が麹町区飯田町1丁目字牛が淵に完成、移転

体操練習所を日本体育会体操学校と改称、文部大臣の監督を受ける各種学校となり、本科1年、別科6か月の課程を置く。
1900
1903
1903

一般への体育普及のため日比谷公園に運動機器設置

日本体育会は、体育の必要性を広く理解してもらい、普及させるために、会の運動施設を一般に開放していました。こうした試みは、今日では当たり前となっている学校の運動施設開放に先鞭をつけることとなりました。
さらに、誰でも自由に運動できる環境を実現したいと考えた日本体育会は、東京府に対して補助金の交付を申請。1902(明治35)年に上野、芝、浅草、深川、日本橋の公園に、三、四の運動機器を設置しています。1903(明治36)年には、日比谷公園に大掛かりな運動機器を設置。これらの公園には多くの若者たちが集まり、気軽に体育に親しむようになりました。
1904

荏原郡大井村へ移転

「日本体育会体操学校」となったものの、国庫補助金の交付が5年で打ち切られると、日本体育会の経営は悪化しました。そのため東京の中心地を離れ、1904(明治37)年、東京府内荏原郡大井町字浜川に移転します。ここに体操学校の大井時代がはじまります。
立地の関係から入学志願者が減り、廃校の危機に直面しましたが、日露戦争の勃発により体操(体育)教師の大部分を占めていた予備役軍人が召集され、体操教師に大幅な欠員が生じ、卒業生に対する需要が増えました。
また、大井村に移転するにあたって新たに中学校(現、日体荏原高等学校)を併設することで、体操学校の経営の安定が図られました。
1904
1926
1926

日体大独自の応援スタイル「エッサッサ」完成

当時の在学生・平井一が、アメリカから導入された『ピストン・ロッジ・アームモーション走法』をモチーフに考案。その後、時代に合わせたアレンジを加えられながら継承され続け、「月明かりに獅子が月に向かって咆哮する様子」を表したといわれる現在の形になりました。
1941

日本体育専門学校に昇格

昭和になると、各種学校としての体操学校を専門学校へと昇格させ、さらに大学を目指そうという声が高まってきました。
キャンパスが手狭になったこともあり、日本体育会体操学校は1937(昭和12)年に世田谷区・深沢の現在地に移転し、1940(昭和15)年には財団法人へと改組。1941(昭和16)年に念願の日本体育専門学校となりました。
1941
1946
1946※土浦時代のグラウンド

茨城県土浦市の元海軍航空隊跡地へ移転

1949

日本体育大学設立

戦争は終わりました。しかし、1945(昭和20)年の東京大空襲により、世田谷区・深沢の日本体育専門学校の諸施設は甚大な被害を受け、復興の目途が立ちませんでした。そこで1946(昭和21)年、茨城県土浦市阿見町にあった元海軍航空隊跡地へ移転。5年にわたる土浦時代が始まります。1949(昭和24)年、新制大学として認可され、日本体育大学が設立されました。当初は体育学部体育学科のみという単科大学としてのスタートであり、新時代に求められる体育教員の養成を目指しました。ただ、東京から遠く離れていたため、初年度の入学者は64名にすぎませんでした。
その後、戦後復興が進むにつれ、世田谷・深沢の旧キャンパスへの復帰の機運が高まり、1951(昭和26)年に実現。これによって入学志願者が急増し、大学の教育と研究、それを支える経営は安定していきました。
高度経済成長が始まった昭和30年代後半からは、時代の変化に対応するため、1962(昭和37)年の健康学科など次々に新しい学科を増設しました。
1951
1951※東京・世田谷キャンパスの正門と全景

世田谷区深沢の旧日本体育専門学校のキャンパスに復帰

1952

校章が現在のデザインに決定

1949(昭和24)年9月20日に日本体育大学は新制大学としての歴史を刻み始めました。当時の記章(校章)は「大學」の文字の左右に「體」と「育」とを配したものでしたが、1952(昭和27)年に今の形に決定。現在、大学を象徴する校旗や学友会各部の部旗にもデザインされています。この他にも日本体育大学には、1955(昭和30)年に制定されたシンボルマーク、2006(平成18)年に投票で決まったロゴマーク、シンボルマスコットがあります。

1952_2
1952
1964
1964

東京オリンピック
全学をあげて東京オリンピックに協力

戦後、日本体育大学は体育教員の養成に力を注ぎ、どちらかといえばトップアスリートや競技スポーツの指導者の育成については二義的なものととらえていました。
その方針を転換する契機になったのが、1964(昭和39)年の東京オリンピックです。体操、柔道、レスリング、女子バレー、マラソンなどでの日本人選手の活躍に国中が沸きました。本学では全学的な協力体制を整え、多くの学生や教職員がオープニング・セレモニーに出場したり、大会補助員として参加したりしました。
こうして、学内外においてスポーツに対する見方や取り組み方が大きく変わり、本学ではトップアスリートや競技スポーツの指導者育成に真正面から取り組むよう方針転換を図ることになったのです。その結果、今日まで日本体育大学はどの大学よりも多くのオリンピック選手とメダリストを輩出することとなりました。
また、このオリンピックの後、暫くして“二ホン”体育大学から“ニッポン”体育大学へ呼称を改めました。スポーツの国際舞台ではたいてい“NIPPON”ないし“JAPAN”が用いられることから、文字通り日本を代表するスポーツ大学になろうという決意の表れです。
1971

体育専攻科を開設
横浜・健志台キャンパスでグラウンド開きを行う

トップアスリートや競技スポーツの指導者を育成するため、また学生数の増加によって世田谷・深沢キャンパスが手狭になってきたことから、運動施設、運動部の強化策として新たなキャンパスを設けることになりました。
1968(昭和43)年、横浜市緑区(現青葉区)鴨志田町に3万7700坪の用地を確保し、運動施設の建設に着手。これが健志台キャンパスです。
まず、陸上競技場、野球場、ラグビー場、サッカー場、テニス場、アーチェリー場、バレーボールコート、ハンドボールコートなどが建設され、その後も体操競技専用の体操競技館、管理棟なども完成しました。
「健志台」の名称は、当時の日本体育会の米本卯吉理事長の発案によるもので、「健」は健康を意味し、「志」は学および鴨志田町に因み、「台」は丘陵を指しています。
1971※横浜・健志台グラウンドの全景
2021
2021

日本体育大学 創立130周年