日体大、その挑戦の歴史を辿る


1857

日高藤吉郎栃木県佐野町堀込郷にて誕生

本学の創設者である日高藤吉郎は、幕末の1857(安政4)年に栃木県佐野町近郷の堀込郷で誕生しました。幼くして父親と死別し、親戚筋の養子になるものの、17歳で陸軍に入隊。西南戦争などに従軍しました。
その経験から、日本人の体位・体力が著しく劣っていることや、将校が軍人としての指揮能力を欠いていることを痛感。20代後半で除隊した後、「国家建設の基は体育にあり」と考え、1885(明治18)年に士官学校の予備教育機関として文武講習館(後の成城学校、現在の成城中学校・高等学校)を開設。さらに、1891(明治24)年に私財を投じて「体育会」を創設しました(翌年に「日本体育会」と改称)。
日高は日本体育会の発展に尽力し、1901(明治34)年には同会を私的機関から公的な社団法人に改組。1932(昭和7)年、76歳にて死去しました。
1857
1891
1891

日高藤吉郎、東京市牛込区に体育会を設立

19世紀末、世界中で欧米列強の帝国主義が吹き荒れており、その中で独立を守り、アジアの先陣を切って近代化を進めるため、明治政府は富国強兵・殖産興業の方針を掲げました。民間の立場からこの方針を支えるべく、日高藤吉郎により1891(明治24)年、創設されたのが「体育会」(翌年に「日本体育会」に改称)です。
日高が自ら執筆した「体育会設立ノ要旨」には次のように記されています。
*****
夫レ身体健康ナラザレハ,心志剛強ナル能ハズ。心志剛強ナラザレハ,事ニ堪ヘ業ヲ遂クルコト能ハズ。而シテ身体ノ健康ヲ欲セハ,身体ヲ運動スルヨリ善キハ莫シ。(中略)体育ノ重キハ旣ニ此クノ如シ。即チ余カ輩以爲ヒラク,体育ヲ盛ニシテ國民ノ強壯ヲ謀ルハ,蓋シ國家富強ヲ圖ル大本ナリト。
*****
国民の体位・体力を増進するため、「日本体育会」が当初、目指していたのは現在のスポーツ・クラブのような会員制の組織を全国展開することでした。ドイツ語に堪能であった日高は、当時のドイツで普及していた体育協会(ツルンフェライン)をモデルにしたようです。日本体育会では、3回にわたって内国勧業博覧会に参加し、“総合体育会館”の建設・出品も行っています。
しかし、あまりに先駆的なこの試みは会費徴収に問題を抱え、資金面で安定を得ることができませんでした。そのため、日本体育会の事業は実質的には学校経営に絞られていきました。
1893

日本体育会体操練習所を東京市麹町区飯田町4丁目に設置

日本体育会が1893(明治26)年に設けたのが「日本体育会体操練習所」です。これは日本体育会の会員制組織において体育を教える専門家を養成することを目的とし、さらに学校体育の教員となる予備機関としての役割も担うものでした。この「日本体育会体操練習所」こそ、今日の日本体育大学の前身に他なりません。明治期には他にも、多くの私立の体操教員養成機関が設立されました。しかし、その多くは間もなく消えていきました。
そのような状況下にあって「日本体育会体操練習所」が存続できた大きな理由は、国の信頼と支援を得ることができたからです。総裁に皇族の閑院宮載仁親王を推戴し、会長・副会長のポストには軍の高官や華族を招き、1899(明治32)年、国庫補助金(5か年)を受領することになりました。
文部省直轄学校として開校した「体操伝習所」(明治11年設置、現在の筑波大学体育専門学群)が廃校となり、代わって体育教員養成の機能を委ねられた高等師範学校の体操専修科も1889(明治22)年以来、実質的に体育教員の養成を中断していたため、国の体育教員養成機関の肩代わりをする機関が必要とされていたのです。こうして、「日本体育会体操練習所」は実質的には国立に準じる団体とみなされ、文部省直轄機関の一つに加えられることになりました。1900(明治33)年には、「日本体育会体操学校」と改称しました。
1900

体操練習所および模範体操所が麹町区飯田町1丁目字牛が淵に完成、移転

体操練習所を日本体育会体操学校と改称、文部大臣の監督を受ける各種学校となり、本科1年、別科6か月の課程を置く。
1900

日体運動部の誕生

日体大の学友会運動部のルーツは、明治30年代にさかのぼります。明治32(1899)年、日本体育会は東京の牛が淵の靖国神社付属地を借用して、模範体操場の建設に着手しました。この運動施設が学生たちのスポーツ活動の拠点となります。
翌年、日本体育会体操練習所は体操学校に改称されます。この頃、体操学校内に「体育研究会」が発足し、器械体操部、射撃部、撃剣部、弓術部、漕艇部、遊戯部(クロッケー、ラグビー、サッカー、ボウリング、ゴルフ、テニス、野球、クリケット、フィールドホッケー、ビリヤードなど)、自転車部、馬術部、ローラースケート部、柔術部、水泳部、兵事講習部、女子遊戯部が活動をはじめます。バスケットボールやバレーボールなど、日本に本格的に伝来する前のスポーツは対象外でしたが、明治後期の人気スポーツの大半をカバーしています。こうして、学生たちは、課外活動として模範体操場に赴いてスポーツに汗を流すようになったのです。ただし、当時の研究会は同好会のような組織で、「競技」に重きを置くものではありませんでした。
大正10年代になると、体育研究会は同好会の段階から脱皮して競技性を帯びた団体へと転じました。日本のスポーツ界が国際舞台に進出したことに伴い、日本体育会体操学校でもスポーツを奨励するようになったからです。当時、オリンピック選手の供給源を担ったのは各種の学校でしたから、運動能力に優れた学生を多く抱える体操学校が競技スポーツに関心を寄せるようになったのは当然の成り行きでした。
大正14(1925)年、体操学校の研究会は、運動部を中心とした新たな組織「日本体育会体操学校研究会」へと改組されます。現在につながる学友会運動部の誕生です。このとき定められた「体操学校研究会会則」に掲載された運動部は、ダンス部、陸上競技部、角力部、庭球部、野球部、団体競技部(蹴球、バレーボール、バスケットボール)、高等器械部(高等器械、タンブリング)、山岳部(スキー、登山)、乗馬部でした。ほかにも、弓術部、ホッケー部、剣道部、柔道部、応援部が活動していましたので、当時の体操学校のスポーツ活動は相当な規模に及んだことになります。ここに、日体大の学友会運動部の基礎が築かれました。
20世紀の開幕とともに萌芽した「日体」の運動部は、大正のスポーツブームの波に乗って競技スポーツの研鑽の場として開花したのです。
1900_1明治後期の撃剣部の試合
(『近代日本の体育・スポーツ史の原風景(第4版)』2017、p.102)
1900_2大正末期の水泳部(上)と陸上競技部(下)
(『学校法人日本体育会日本体育大学八十年史』日本体育会、1973、p.590)
1900_3大正末期の野球部(上)とバスケットボール部(下)
(『学校法人日本体育会日本体育大学八十年史』日本体育会、1973、p.591)
1903

1903

一般への体育普及のため日比谷公園に運動機器設置

日本体育会は、体育の必要性を広く理解してもらい、普及させるために、会の運動施設を一般に開放していました。こうした試みは、今日では当たり前となっている学校の運動施設開放に先鞭をつけることとなりました。
さらに、誰でも自由に運動できる環境を実現したいと考えた日本体育会は、東京府に対して補助金の交付を申請。1902(明治35)年に上野、芝、浅草、深川、日本橋の公園に、三、四の運動機器を設置しています。1903(明治36)年には、日比谷公園に大掛かりな運動機器を設置。これらの公園には多くの若者たちが集まり、気軽に体育に親しむようになりました。

明治の「万博」と日本体育会

明治24(1891)年に国民体育の振興を掲げて誕生した日本体育会は、広く国民に「体育」というニューカルチャーを浸透させるために数々の事業に着手します。そのひとつが、明治36(1903)年に大阪の天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会への参加でした。
内国勧業博覧会(以下「内国博」」とは、国内産業の発展や貿易の促進を目的とした博覧会です。第1回は明治10(1877)年に東京で開かれ、その後、第2回(東京・1881年)、第3回(東京・1890年)、第4回(京都・1895年)と回を重ねて、第5回は最大規模の博覧会になりました。敷地面積は前回の倍程度、入場者数は3倍以上、会期も過去最長の153日間です。それまで認められていなかった外国製品が陳列され、14ヵ国18地域が出品しています。第5回内国博は、もはや「万博」に匹敵する規模でした。
内国博に向けて、日本体育会は運動用具メーカーの美満津商店の協力を得て、多種多様な用具を購入しました。博覧会の期間中は会場内に「特設体育場」を設置し、ボクシングの練習用器具、筋力トレーニングのマシン、測定器具、ダンベル、クリケット用具、テニス用具、フットボール用具、野球用具、武術用具(剣術、槍述、棒術、薙刀など)、古来の遊戯具(蹴鞠、羽子板、凧、竹馬など)をはじめ、大規模な展示を行っています。来場者が展示物に直接触れて、運動を体験できるブースも設けられました。まるで、スポーツをテーマとした「移動博物館」のようです。
展示物の出品のほかにも、日本体育会は特設体育場でテニス、ローラースケート、自転車、武術、蹴鞠などのデモンストレーションを披露し、競技大会も開きました。
日本体育会の特設体育場は連日の大盛況でした。博覧会の会場には行かずに、特設体育場の運動体験ブースだけを目当てに来場する人びとが毎日数10人以上いたそうです。
第5回内国博の成功を受けて、国内では万国博覧会の日本開催への期待が高まり、明治40(1907)年に予定されていた第6回を万博にしようとの声も上がります。しかし、日露戦争後の財政難の影響で第6回は延期、ついには中止に追い込まれました。歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もし、この時代に万博の日本開催が実現していたなら、日本体育会はさらに大規模かつ充実した展示に挑戦し、国際的な注目を集めたことでしょう。
1903_1第5回内国勧業博覧会の全景写真
(高木秀太郎『第五回内国勧業博覧会』関西写真製版印刷出版部、1903、頁記載なし)
※国立国会図書館デジタルコレクション:
https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/323-001r.html
1903_2日本体育会が設置した特設体育場の図面
(「第五回内国勧業博覽会場内日本体育会特設体育場開閉始末」『体育』118号、1903、p.45)
1903_3第5回内国勧業博覧会の蹴鞠の模範演技
(鳴戸源之助編『第五回内国勧業博覧会紀念写真帖 三』玉鳴館、1903、頁記載なし)
※国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/801981/1/11
1904

荏原郡大井村へ移転

「日本体育会体操学校」となったものの、国庫補助金の交付が5年で打ち切られると、日本体育会の経営は悪化しました。そのため東京の中心地を離れ、1904(明治37)年、東京府内荏原郡大井町字浜川に移転します。ここに体操学校の大井時代がはじまります。
立地の関係から入学志願者が減り、廃校の危機に直面しましたが、日露戦争の勃発により体操(体育)教師の大部分を占めていた予備役軍人が召集され、体操教師に大幅な欠員が生じ、卒業生に対する需要が増えました。
また、大井村に移転するにあたって新たに中学校(現、日体荏原高等学校)を併設することで、体操学校の経営の安定が図られました。
1904
1926

「エッサッサ」の誕生

毎年、5月には両国国技館で学生相撲大会が開催され、どの学校もそれはそれは熱の籠った応援を行っていました。1925(大正14)年度の大会では、応援団員の平井一氏がその応援合戦を目の当たりにし、自分達も他の学校に対抗できる応援を行いたい、との想いを持ちました。翌1926(大正15)年度には応援団長に選ばれ、その想いはますます強くなるばかりでした。
4月の新入生に向けた応援指導前には、新たな応援スタイルを考えておく必要がありました。4月中旬の晩、平井氏は、寮の自分の部屋で試行錯誤をしているうちに、陸上競技の腕振り動作に着想を得ました。当時、腕振りには2つの主張がありました。1つは、「クロス・ボディ・アームモーション」といって、上体の前で腕を交差させる方法です。そして、もう1つは、「ピストン・ロッヂ・アームモーション」といって、上体の前で腕を交差させないでピストンのように早く振り戻す方法です。
平井氏は、胸を張り、上体を固定して力強く腕を振るためには、左右平行に振ったほうが上体も揺れず、見た目も美しいと考えました。「エッサッサ」という掛け声は、荷物を担いで走る時などによく聞く掛け声だったので自然な成り行きで思い付くに至ったようです。日体の応援スタイル「エッサッサ」は、大井町の寮の一室で産声をあげたのです。
応援練習は毎日のように校庭で全員参加のもと行われました。応援リーダーは高さ1mの指揮台の上でタクトを振って腕の振りの速さを調節しました。タクトは棒切れが多かったようですが、扇子(うちわ)を使うこともありました。応援歌は数種類あって万単位で始まる番号が付けられていました。エッサッサの応援番号は「六〇六号」でした。「日体応援歌、第〇万〇千六〇六号、ヨーイ」の号令は「エッサッサ、ヨーイ」を意味しました。実は、応援歌の番号は末尾の一桁だけに意味があり、その他の数字に意味はありませんでした。そのため、数字は常に変更されましたが、エッサッサの「六〇六」だけは変わることがありませんでした。「六〇六」という数字は、ある有名な薬品の登録商標に由来しているそうです。エッサッサの服装は、上半身は裸体、白い帽子、白い長ズボン、白い運動靴でした。応援団長は紋付羽織に袴姿で高下駄を履いていました。懐には大きな時計を入れ、それを見て時間の調整を行ったようです。
大会当日、日体生は両国橋上に集合、「エッサ、エッサ・・・」の掛け声で足並みを揃えて会場入りし、応援団長の平井一氏が応援席正面に出て指揮を執りました。「日体応援歌、第〇万〇千六〇六号、ヨーイ」。日の丸の扇を振って応援を開始すると、会場内は万雷の拍手でたいへんな騒ぎになったといいます。この瞬間こそが、今日まで脈々と受け継がれる「エッサッサ」の歴史の幕上げだったのです。
1926_11930年頃のエッサッサの練習(オリンピックスポーツ文化研究所所蔵)
1926_21942年頃の相撲応援(オリンピックスポーツ文化研究所所蔵)
1928

初のオリンピック選手の輩出

ミラノ・コルティナ大会まで、夏季オリンピックに450名、冬季大会に56名、合わせて500名を超すオリンピアンを輩出しています。しかし、オリンピックが始まった当初は、競技の性質を持つ大会への参加については消極的な学校でした。その理由は、競技でトップを目指すというよりも、国民体育の奨励に主眼を置いていたためです。
しかし、学生数が増加したことに伴い、競技においてもトップクラスの学生が入学してくるようになりました。こうした流れの中で、本学関係者として初めてオリンピックに出場したのは、1928(昭和3)年にオランダで開催された、アムステルダム大会に出場した中沢米太郎氏です。
中沢氏は1903(明治36)年大阪府生まれ。府立岸和田中学校の出身で、1926(大正15)年に日本体育会体操学校を卒業しました。身長は180cmを超え当時としては大柄な人物だったという事が窺えます。競技は陸上競技で、この大会では棒高跳びと、十種競技に出場しています。十種競技では22位と振るいませんでしたが、棒高跳びでは、3m90cmを記録し6位に入賞しています。なお、1922(大正11)年から棒高跳びの日本記録保持者であり、同大会では日本選手団の旗手も務めた実力者でした。
その後は旧制浪速高等学校や、岸和田市立産業高校等で教鞭を執り、1961(昭和36)年からは大阪の岸和田市長として活躍しました。
この流れを汲み、4年後のロサンゼルス大会には、体操競技の佐々野利彦氏、武田義孝氏が出場し、その次のベルリン大会にも、体操競技と陸上競技で多くの同窓生が出場することになりました。
1928_1中沢米太郎氏(左)とアムステルダム大会のコーチであった竹内廣三郎氏(右)
中澤米太郎著:『陸上競技者に贈る』日本體育學會、1931年、p.25より転載
1928_2日本体育大学創立百周年記念同窓会回顧録編集委員会編:
『日体大同窓会回顧録 -あれから百年』日本体育大学同窓会、1991年、p.152より転載
1941

日本体育専門学校に昇格

昭和になると、各種学校としての体操学校を専門学校へと昇格させ、さらに大学を目指そうという声が高まってきました。
キャンパスが手狭になったこともあり、日本体育会体操学校は1937(昭和12)年に世田谷区・深沢の現在地に移転し、1940(昭和15)年には財団法人へと改組。1941(昭和16)年に念願の日本体育専門学校となりました。
1941
1941-1945
1941_45_1昭和10年代後半の出征風景(オリンピックスポーツ文化研究所所蔵)

戦時下の本学

1941(昭和16)年12月26日、日本体育専門学校としてはじめての卒業式が行われました。しかしこれは、本来なら翌年の3月に卒業する予定の生徒に向けてのもので、最後まで勉強をすることが叶いませんでした。繰り上げられての卒業となった先輩達は、その足で入隊し戦地へ向かうことになりました。
その後の戦局の悪化とともに、1943(昭和18)年になると、大学生や専門学校生に対する徴兵の猶予が停止され、いわゆる“学徒出陣”の時代を迎えます。同年の11月には、翌1944(昭和19)年の3月に師範科を卒業するはずの37名、同年の9月に本科を卒業すべき36名を対象とする仮卒業式が実施されました。さらにここでは、同年9月に2学年に進級する予定の1年生53名に対しても、仮修了証書が授与され合計126名が12月に軍隊へ入隊することとなりました。
また、残された生徒も、当時の大学・専門学校と同様に、勤労学徒として動員されます。本校からは早稲田大学に次ぐ規模となる4,000名もの生徒が、軍需産業等に動員されています。このような状況から、本校が戦時体制に深く組み込まれていいたことが窺えます。その一例として1943(昭和18)年に航空体育科、海洋体育科が設置されたことが挙げられます。
当時、出征する先輩たちは、渋谷駅・東京駅・上野駅などにおいて、本学の伝統的な応援スタイルであるエッサッサによって見送られていました。平和な時代に生きる我々は、学生や同窓生を戦地へ送り出すためのエッサッサを、二度と行ってはならないという教訓をここに見出すことができます。
1946
1946※土浦時代のグラウンド

茨城県土浦市の元海軍航空隊跡地へ移転

1949

日本体育大学設立

戦争は終わりました。しかし、1945(昭和20)年の東京大空襲により、世田谷区・深沢の日本体育専門学校の諸施設は甚大な被害を受け、復興の目途が立ちませんでした。そこで1946(昭和21)年、茨城県土浦市阿見町にあった元海軍航空隊跡地へ移転。5年にわたる土浦時代が始まります。1949(昭和24)年、新制大学として認可され、日本体育大学が設立されました。当初は体育学部体育学科のみという単科大学としてのスタートであり、新時代に求められる体育教員の養成を目指しました。ただ、東京から遠く離れていたため、初年度の入学者は64名にすぎませんでした。
その後、戦後復興が進むにつれ、世田谷・深沢の旧キャンパスへの復帰の機運が高まり、1951(昭和26)年に実現。これによって入学志願者が急増し、大学の教育と研究、それを支える経営は安定していきました。
高度経済成長が始まった昭和30年代後半からは、時代の変化に対応するため、1962(昭和37)年の健康学科など次々に新しい学科を増設しました。
1951
1951※東京・世田谷キャンパスの正門と全景

世田谷区深沢の旧日本体育専門学校のキャンパスに復帰

1952

校章が現在のデザインに決定

1949(昭和24)年9月20日に日本体育大学は新制大学としての歴史を刻み始めました。当時の記章(校章)は「大學」の文字の左右に「體」と「育」とを配したものでしたが、1952(昭和27)年に今の形に決定。現在、大学を象徴する校旗や学友会各部の部旗にもデザインされています。この他にも日本体育大学には、1955(昭和30)年に制定されたシンボルマーク、2006(平成18)年に投票で決まったロゴマーク、シンボルマスコットがあります。

1952_2
1952
1964
1964

東京オリンピック
全学をあげて東京オリンピックに協力

戦後、日本体育大学は体育教員の養成に力を注ぎ、どちらかといえばトップアスリートや競技スポーツの指導者の育成については二義的なものととらえていました。
その方針を転換する契機になったのが、1964(昭和39)年の東京オリンピックです。体操、柔道、レスリング、女子バレー、マラソンなどでの日本人選手の活躍に国中が沸きました。本学では全学的な協力体制を整え、多くの学生や教職員がオープニング・セレモニーに出場したり、大会補助員として参加したりしました。
こうして、学内外においてスポーツに対する見方や取り組み方が大きく変わり、本学ではトップアスリートや競技スポーツの指導者育成に真正面から取り組むよう方針転換を図ることになったのです。その結果、今日まで日本体育大学はどの大学よりも多くのオリンピック選手とメダリストを輩出することとなりました。
また、このオリンピックの後、暫くして“二ホン”体育大学から“ニッポン”体育大学へ呼称を改めました。スポーツの国際舞台ではたいてい“NIPPON”ないし“JAPAN”が用いられることから、文字通り日本を代表するスポーツ大学になろうという決意の表れです。
1971

体育専攻科を開設
横浜・健志台キャンパスでグラウンド開きを行う

トップアスリートや競技スポーツの指導者を育成するため、また学生数の増加によって世田谷・深沢キャンパスが手狭になってきたことから、運動施設、運動部の強化策として新たなキャンパスを設けることになりました。
1968(昭和43)年、横浜市緑区(現青葉区)鴨志田町に3万7700坪の用地を確保し、運動施設の建設に着手。これが健志台キャンパスです。
まず、陸上競技場、野球場、ラグビー場、サッカー場、テニス場、アーチェリー場、バレーボールコート、ハンドボールコートなどが建設され、その後も体操競技専用の体操競技館、管理棟なども完成しました。
「健志台」の名称は、当時の日本体育会の米本卯吉理事長の発案によるもので、「健」は健康を意味し、「志」は学および鴨志田町に因み、「台」は丘陵を指しています。
1971※横浜・健志台グラウンドの全景
2013

「反体罰・反暴力宣言」

2010年代のスポーツ界にはガバナンス強化という喫緊の課題がありました。その背景となるのは2012年12月の桜宮事件、2013年1月には女子柔道強化選手による告発と、スポーツ界における暴力・パワハラが相次いで明るみとなったことにあります。
スポーツ界から暴力・パワハラをはじめとする全てのハラスメントを一掃すべく、文部科学大臣(2013年2月5日)、日本体育学会理事会(2013年1月31日)、日本体育協会・日本オリンピック委員会等(2013年4月25日)をはじめとする関係各所が相次いで宣言や声明を発表し、スポーツ界から一切のハラスメント根絶を訴えました。
本学でも2013年2月8日、当時学長を務めていた谷釜了正先生が「日本体育大学は、ここに改めて反体罰・反暴力を宣言します」の一文から始まる「反体罰・反暴力宣言」を公表しました。「教育活動及びスポーツ指導活動においていかなる事情があろうとも体罰・パワーハラスメント等の暴力についてはこれを排除します」と訴えるこの宣言は、本学で教育に携わる者は「特に人間の尊厳と人権についての理解を深め、すべての学生、すべての人間に対し、老若男女の区別なく、また、才能や成績の優劣で区別することなく平等に接するよう心がけねばならない」こと明記する本学教職員心得『CREDO』(信条を意味するラテン語)を改めて再確認するものでもありました。
その後、本学では2014年4月上旬に、2013年度、2014年度入学の学生に対するアンケートを実施し、体罰・暴力の経験や実情調査を行いました。その調査結果は本学紀要にて公表をしています。2017年度からは「学校・部活動における重大事故・事件から学ぶ研修会」を毎年開催しています。教育現場における重大事故・事件(死亡、後遺障、体罰、ハラスメント)を過去の事例から学ぶことで、未然防止と適切な危機管理を理解し教育現場の安全確保を目指しています。またアカデミックアドバイザー、学生相談室、学生支援センター等の相談先が学内には設けられています。学内外で同じような悲劇が繰り返されぬよう体罰・暴力の根絶に向けて積極的な取組を行っています。
 
・「反体罰・反暴力宣言」
・谷釜了正他「日本体育大学における体罰排除教育の効果:卒業年次生の分析」『日本体育大学紀要』46巻1号、2016年、pp. 91-104。
https://nittaidai.repo.nii.ac.jp/records/1362
・関口遵他「「学校・部活動における重大事故・事件から学ぶ研修会」の成果と指導者育成に向けて : 「学校・部活動における重大事故・事件から学ぶ研修会」参加学生の実態に関する調査」『スポーツ危機管理研究』1号、2019年、pp. 21-30。
https://nittaidai.repo.nii.ac.jp/records/1637
 
2021
2021

日本体育大学 創立130周年

日体大と東京2020大会

コロナ禍によって1年延期し、2021年の開催となった東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(東京2020大会)。奇しくも2021年は日本体育大学の源流である体育会(翌年「日本体育会」の改称)の設立から数えて130年に当たる節目の年でもありました。
本学からはオリンピックに21競技59名、パラリンピックに6競技10名が参加しました。オリンピックでは阿部一二三選手(柔道男子66キロ級)、詩選手(柔道女子52キロ級)の史上初兄妹金メダルや入江聖奈選手の(ボクシング女子フェザー級)金メダルの活躍をはじめ、金メダル3個、銀メダル3個、銅メダル3個、合計9個のメダルを獲得し、その他16名が入賞を果たします。パラリンピックでは梶原大暉選手(パラバドミントン男子シングルス(車いすWH2))が金メダルを獲得し、金メダル1個、銀メダル4個、銅メダル2個の合計7個メダルを獲得し 3名が入賞をしました。連日、本学関係者の活躍が東京2020大会を盛り上げたといえるでしょう。
この東京2020大会を間に挟む時期、本学では「体育・身体活動・スポーツを通じた健康で豊かな社会・人づくりの実現」に向けて『日本体育大学グランドデザイン2018-2022(中期目標・計画)』を策定していました。計画では、教育(人材育成)、研究基盤、社会貢献基盤の整備と共に競技基盤(アスレティックデパートメント)の整備が挙げられ、このことは東京2020大会での本学の貢献を目指すことに他なりません。そしてこの競技基盤の整備は選手育成に留まるものではなく、「スポーツ専門職(コーチ、トレーナー)の効果的配置」「効果・効率的スカウティングの展開(含移動用車両の提供等)」「トレーニング施設(設備)の整備・充実」「メディカルサポートの充実(治療用器具の計画的配備)」も挙げられており、競技スポーツ全体の底上げと強化を図る意図がありました。実際に教職員の中には東京2020大会に役員・スタッフとして参画した方もいらっしゃいます。
史上初の無観客開催という未曾有の状況で実施された東京2020大会ですが、1964年の東京大会同様に表に裏に本学の貢献がありました。

・日本体育大学 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会特設サイト
https://www.nittai.ac.jp/olympic/tokyo/
・日本体育大学グランドデザイン2018-2022(中期目標・計画)「体育・身体活動・スポーツを通じた健康で豊かな社会・人づくりの実現」に向けて
https://www.nittai.ac.jp/about/profile/policy.html

2024

横浜・健志台キャンパス5号館完成

健志台5号館
2026
エッサッサ100周年

日体大独自の応援スタイル「エッサッサ」100周年

ギネス世界記録®認定!

タイトル:最大の日本式リズミック応援(Largest Japanese rhythmic cheer)
達成日:2026年5月1日
記録人数:744名
場所:日本体育大学 東京・世田谷キャンパス 多目的グラウンド
達成者:Nippon Sport Science University(日本体育大学)