NITTAI PICKS

関口雄飛助教が本学出身の戦没オリンピアン・有本彦六氏に関する研究結果を公開 『読売新聞』に掲載されました
研究活動
2025.09.22(月)

本学・関口雄飛助教(オリンピックスポーツ文化研究所)は、本学の前身・日本体育会体操学校の卒業生であり戦没オリンピアンでもある有本彦六氏に関する調査・研究を行い、その結果を学術論文としてまとめました。この度、『オリンピックスポーツ文化研究』第10号にその論文が掲載されましたので、お知らせいたします。
 
戦没オリンピアン・有本彦六のライフヒストリー:体操競技をめぐる指導理念-「日体スワローの魂」の形成とその実践
 
有本彦六氏は、日本体育会体操学校を卒業後、1936年ベルリンオリンピックに体操日本代表として出場を果たしました。結果は団体総合第9位に終わったものの、次の1940年東京オリンピックでの活躍を誓い、国内トップレベルの体操選手として君臨しました。しかし、日中戦争の影響で東京オリンピックが返上され、氏の目標も失われてしまいます。その後、有本氏は、器械体操部の指導者として後進の育成に尽力し、「スワロークラブ」(現・日体スワロー)の礎を築きましたが、1943年7月に大日本帝国海軍に応召し、1945年4月25日に台湾沖で敵艦の攻撃を受けて亡くなったと伝えられています。
本論文は、有本氏の生涯を追うことによって、氏の体操競技に対する指導理念がどのように形成され、それがいかに実践されたのかを描き出しています。本論文によれば、氏は、出征する直前に親友に、「俺が死んだら骨を体育館に埋めてくれ」と言い残したそうです。本論文は、氏がそのような言葉を残さざるを得なかった時代を振り返り、スポーツに汗を流すことができる平和な日常の尊さを考えさせるものとなっています。
 
本研究の成果は、2025年9月15日付の『読売新聞』で紹介されました。
読売新聞(2025年9月15日付東京朝刊社会31頁)
「戦没オリンピアン 体操日本の礎」
※ 上記記事は、著作権者の転載承認を受けて本ページに掲載しています。
※ 上記記事のPDFファイルの転載は一切禁止します。
 
なお、オリンピックスポーツ文化研究所では、戦後80年を迎えた本年、2025年度より戦没同窓生名簿の作成をスタートしました。
本学の戦没同窓生に関する情報をお持ちの場合には、下記連絡先までお知らせください。
【お問合せ先:日本体育大学オリンピックスポーツ文化研究所】
氏名、連絡先、お問合せ内容を明記の上、下記のいずれかの方法でご連絡ください。
メール:olyken@nittai.ac.jp
郵便 :東京都世田谷区深沢7-1-1
 
オリンピックスポーツ文化研究所:研究活動報告